最高裁判所第二小法廷 平成7年(オ)528号 判決 1998年9月07日
平成七年(オ)第五二七号事件上告人
国
右代表者法務大臣
中村正三郎
右指定代理人
山崎潮
外八名
平成七年(オ)第五二八号事件上告人
京都府
右代表者知事
荒巻禎一
右訴訟代理人弁護士
香山仙太郎
前堀克彦
右指定代理人
後藤廣生
外二名
平成七年(オ)第五二七号、第五二八号事件被上告人
尹昌烈
右訴訟代理人弁護士
小野誠之
小山千蔭
塚本誠一
出口治男
坂和優
中島俊則
三重利典
武田信裕
池上哲朗
八重樫和裕
石田明義
村岡啓一
山本啓二
横路民雄
今瞭美
犬飼健郎
内田正之
高橋輝雄
檜山公夫
松倉佳紀
沼田敏明
佐藤欣哉
沼澤達雄
脇山拓
脇山淑子
松波淳一
上柳敏郎
海渡雄一
斉藤豊
竹之内明
谷川浩也
床井茂
鳥海哲郎
内藤隆
永田早苗
永野貫太郎
東澤靖
堀野紀
外山太士
惠崎和則
熊谷隆司
折原俊克
鳥毛美範
中山博之
青島明生
山田博
山本直俊
吉村悟
箕輪弘隆
稲垣清
大島直人
加藤洋一
加藤美代
花田啓一
高木輝雄
山田万里子
山崎和友
青木佳史
秋田真志
石田法子
井上洋子
池田直樹
位田浩
岩本朗
上野勝
浦功
浦中裕孝
大川一夫
大槻和夫
奥村秀二
加島宏
加藤高志
金井塚康弘
金子武嗣
川下清
河野豊
冠木克彦
岸上英二
岸本達司
木村哲也
金喜朝
日下部昇
熊野勝之
小坂井久
越尾邦仁
桜井健雄
沢田篤志
財前昌和
塩野隆史
島尾恵理
茂木鉄平
高江俊名
高階叙男
高見秀一
武村二三夫
田中俊
田中泰雄
田中幹夫
寺沢勝子
戸谷茂樹
中西裕人
中村真喜子
西岡芳樹
丹羽雅雄
乗井弥生
平場安治
平栗勲
藤田正隆
三上孝孜
宮地光子
森下弘
山下潔
養父知美
裵薫
高田良爾
中田政義
中田良成
草地邦晴
長野浩三
永井弘二
長谷川彰
渡辺馨
玉木昌美
吉原稔
内橋裕和
荻原研二
高藤敏秋
中川和男
峯田勝次
吉田麓人
原田紀敏
森川憲二
足立修一
生田博道
石口俊一
大迫唯志
小田清和
小笠原正景
久保豊年
胡田敢
佐々木猛也
相良勝美
野曽原悦子
馬淵顕
増田義憲
古河真人
風呂橋誠
本田兆司
山田延廣
木山潔
林隆義
服部融憲
吉本隆久
川中修一
高橋敬幸
坂元洋太郎
田川章次
猪崎武典
薦田伸夫
木村清志
藤原充子
山下道子
高木健康
岩城和代
角銅立身
近藤真
林健一郎
平田広志
村井正昭
八尋光秀
吉村敏幸
濱田英敏
加藤修
松本津紀雄
村山光信
吉井秀広
成見幸子
真早流踏雄
田平藤一
吉田良尚
新里恵二
芳澤弘明
金城睦
平良一郎
中下裕子
吉峯康博
田代博之
湯川二朗
郷成文
小野原聡史
良原栄三
石坂俊雄
中村亀雄
島崎哲朗
野々山宏
山下綾子
佐藤真理
松岡康毅
妻波俊一郎
金敬得
菅充行
鵜野一郎
主文
原判決中、上告人らの敗訴部分を破棄する。
右部分について被上告人の控訴を棄却する。
控訴費用及び上告費用は被上告人の負担とする。
理由
平成七年(オ)第五二七号事件上告代理人増井和男、同鈴木健太、同河村吉晃、同山元裕史、同喜多剛久、同赤西芳文、同塚本伊平、同巖文隆、同近藤秀樹の上告理由並びに同年(オ)第五二八号事件上告代理人堀家嘉郎、同小林昭、同香山仙太郎、同前堀克彦、同竹村繁、同後藤廣生、同大東弘の上告理由第一及び第二について
一 原審の適法に確定した事実関係は、次のとおりである。
1 被上告人は、昭和三一年五月九日に出生し、大韓民国国籍を有する者であり、昭和四七年五月三一日、我が国に永住することの許可を受け、京都市右京区内に所有する建物において妻と居住していた。
2 被上告人は、外国人登録法(昭和六二年法律第一〇二号による改正前のもの。以下同じ。)が定める在留外国人についてのいわゆる指紋押なつ制度の撤廃を求める運動に積極的に参加していたが、昭和六〇年二月八日、李洋子とともに、京都市右京区役所を訪れ、外国人登録証明書を汚損したとして、同法六条一項に基づき、それぞれ外国人登録証明書の引替交付を申請し(以下「本件申請」という。)、被上告人及び李洋子は、その際、京都市の職員である寺岸佳一から同法一四条一項に従って外国人登録証明書、外国人登録原票及び指紋原票に指紋を押なつするように求められたが、いずれもこれを拒否した。
3 京都府太秦警察署の山口休雄司法巡査は、昭和六〇年四月一八日、右京区役所の職員から被上告人の右の指紋押なつ拒否の事実を聞き込み、また、京都府舞鶴西警察署に勤務する高橋悦郎巡査部長は、同月一九日、近畿地区外登法改正闘争委員会発行の「闘争ニュース」第三号を入手したが、これには、同年二月八日に京都、大阪等において被上告人及び李洋子を含む合計一八名が外国人登録法に定める指紋押なつを拒否した旨が記載されていた。右の両警察署から連絡を受けた京都府桂警察署は、同年五月から被上告人に対する捜査を開始し、昭和六一年二月三日、右京区長に対し、本件申請に際しての被上告人の指紋押なつの有無等について照会して、右京区長から、同月一四日付けの回答書を得た。右の回答書には本件申請に際して被上告人が指紋押なつをしなかった旨が記載され、被上告人作成の外国人登録証明書交付申請書及び被上告人の外国人登録原票の各写しが添付されていた。桂警察署に勤務する勝浦憲一警部補は、同月一九日、被上告人の指紋押なつ拒否の状況について寺岸から事情聴取した。
4 桂警察署では、被上告人から事情を聴取することとし、同署に勤務する徳永強志巡査部長らは、昭和六一年二月二四日、同年三月一〇日、同月二四日、同年四月二日、同月九日の五回にわたり、被上告人に対して桂警察署への任意出頭を求めた。しかし、被上告人は、勤め先である韓国青年会京都府地方本部に出勤するなどしてこれに応じなかった。同年三月一五日には、坂和優弁護士が、桂警察署を訪ねて同署に勤務する井手一文警部に対し、弁護人選任届(被上告人が坂和弁護士外二名の弁護士を外国人登録法違反被疑事件に関する弁護人に選任する旨を内容とするもの)、被上告人作成の陳述書(被上告人が指紋押なつを拒否した理由等を記載したもの)、京都大学名誉教授飯沼二郎外四名作成の保証書五通(被上告人が逃亡するおそれがないことを保証する旨を内容とするもの)等を提出した。坂和弁護士が右の弁護人選任届等を提出した様子は、地元の新聞紙上で報道された。
5 桂警察署は、被上告人を逮捕する方針を固め、井手警部が、昭和六一年四月一七日、京都地方裁判所裁判官に対し、逮捕状を請求した。右の請求に当たっては、勝浦警部補作成の捜査報告書(捜査の端緒、捜査の経緯等に関するもの)、徳永巡査部長ら作成の捜査報告書(被上告人に対する呼出しの状況等に関するもの)、前記の桂警察署の右京区長に対する照会書及び同区長からの回答書等の資料が添付された。右の逮捕状の請求を受けた京都地方裁判所和田真裁判官は、同日、逮捕状を発付した。勝浦警部補は、同月一八日午前七時三三分、右逮捕状により被上告人を逮捕した(以下「本件逮捕」という。)。被上告人は、桂警察署において、写真の撮影、指紋の採取等をされ、徳永巡査部長によって取り調べられた後、同日午後一時四〇分、京都地方検察庁検察官に送致された。被上告人は、同地方検察庁において取調べを受けた後、同日午後六時三九分、釈放された。
二 本件訴訟は、被上告人が、平成七年(オ)第五二七号事件上告人国(以下「上告人国」という。)及び同第五二八号事件上告人京都府(以下「上告人京都府」という。)に対し、本件逮捕状の請求及びその発付が違法であることを理由として国家賠償法一条一項に基づき本件逮捕によって被上告人が被った損害の賠償を請求するものであり、原審は、右事実関係の下において、次の理由で、本件の逮捕状の請求及びその発付はいずれも違法であり、逮捕状を請求した司法警察員及びこれを発付した裁判官に故意又は過失も認められるとして、被上告人の本件損害賠償請求を一部認容した。
1 被上告人は、桂警察署から五回にわたって任意出頭するように求められながら出頭しなかったが、右の不出頭には、いずれも正当な理由がなかったというべきである。
2 しかし、被上告人には、次のとおり、逃亡又は罪証隠滅のおそれがなく、逮捕の必要がなかったものと認められる。
(一) 被上告人が逃亡又は罪証隠滅の意思を有していたと認めることはできないし、被上告人は、逃亡のおそれが認められるような生活状態にはなかった。また、桂警察署は、逮捕状を請求した時までに、既に被上告人が指紋押なつをしなかったことを立証するために十分な証拠を入手しており、被上告人が罪証隠滅を企図したとしても、その余地はなかったというべきである。
(二) 指紋押なつを拒否した者に対する宣告刑は、おおむね罰金一万円ないし五万円であることによると、動機、組織的背景等の事実は刑の量定にほとんど影響を及ぼしていないと推測され、仮に右の事実が罰金額の多寡に何らかの影響を与えているとしても、その程度の影響しか持ち得ない事実の解明のために被上告人の身柄を拘束することは明らかに均衡を失するものであり、本件における右の事実は、罪証隠滅の対象にはならないというべきである。
3 井手警部の本件逮捕状の請求は、被上告人を逮捕する必要がないのにされたものであることが明白である。井手警部が逮捕の必要があると判断したことは著しく合理性を欠いて、違法であり、井手警部は、逮捕の必要がないことを知り、又は知り得べきであったから、上告人京都府は、本件逮捕によって被上告人が被った損害を賠償すべき責任を負う。
4 本件においては、通常の裁判官が合理的に判断すれば、明らかに被上告人を逮捕する必要がないと判断し、逮捕状を発付しなかったというべきである。和田裁判官は、逮捕状の請求を受けた裁判官に許される裁量を著しく逸脱し、法が裁判官の職務の遂行上遵守すべきことを要求している基準に著しく違反したものである。和田裁判官は逮捕状の発付が違法であることを知り得べきであったから、上告人国は、本件逮捕によって被上告人が被った損害を賠償すべき責任を負う。
三 しかしながら、原審の右二の2ないし4の判断は、いずれも是認することができない。その理由は、次のとおりである。
1 司法警察職員等は、被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由及び逮捕の必要の有無について裁判官が審査した上で発付した逮捕状によって、被疑者を逮捕することができる(刑訴法一九九条一項本文、二項)。一定の軽微な犯罪については、被疑者が定まった住居を有しない場合又は正当な理由がなく刑訴法一九八条の規定による出頭の求めに応じない場合に限って逮捕することができるとされているから(刑訴法一九九条一項ただし書)、裁判官は、右の軽微な犯罪については、更にこれらの要件が存するかどうかも審査しなければならない。ところで、逮捕状の請求を受けた裁判官は、提出された資料等を取り調べた結果(刑訴規則一四三条、一四三条の二)、逮捕の理由(逮捕の必要を除く逮捕状発付の要件)が存することを認定できないにもかかわらず逮捕状を発付することは許されないし(刑訴法一九九条二項本文)、被疑者の年齢及び境遇並びに犯罪の軽重及び態様その他諸般の事情に照らし、被疑者が逃亡するおそれがなく、かつ、罪証を隠滅するおそれがない等明らかに逮捕の必要がないと認めるときは、逮捕状の請求を却下しなければならないのである(刑訴法一九九条二項ただし書、刑訴規則一四三条の三)。なお、右の罪証隠滅のおそれについては、被疑事実そのものに関する証拠に限られず、検察官の公訴を提起するかどうかの判断及び裁判官の刑の量定に際して参酌される事情に関する証拠も含めて審査されるべきものである。
そして、右の逮捕状を請求された裁判官に求められる審査、判断の義務に対応して考えると、司法警察員等においても、逮捕の理由がないか、又は明らかに逮捕の必要がないと判断しながら逮捕状を請求することは許されないというべきである。
2 本件における事実関係によれば、本件逮捕状の請求及びその発付の当時、被上告人が外国人登録法一四条一項に定める指紋押なつをしなかったことを疑うに足りる相当な理由があったものということができ、さらに、右の罪については、一年以下の懲役若しくは禁錮又は二〇万円以下の罰金を科し、あるいは懲役又は禁錮及び罰金を併科することとされていたのであるから(同法一八条一項八号、二項)、刑訴法一九九条一項ただし書、罰金等臨時措置法七条一項(いずれも平成三年法律第三一号による改正前のもの)に規定する罪に該当しないことも明らかであって、本件においては被上告人につき逮捕の理由が存したということができる。
そこで、逮捕の必要について検討するに、本件における事実関係によれば、被上告人の生活は安定したものであったことがうかがわれ、また、桂警察署においては本件逮捕状の請求をした時までに、既に被上告人が指紋押なつをしなかったことに関する証拠を相当程度有しており、被上告人もこの点については自ら認めていたのであるから、被上告人について、逃亡のおそれ及び指紋押なつをしなかったとの事実に関する罪証隠滅のおそれが強いものであったということはできないが、被上告人は、徳永巡査部長らから五回にわたって任意出頭するように求められながら、正当な理由がなく出頭せず、また、被上告人の行動には組織的な背景が存することがうかがわれたこと等にかんがみると、本件においては、明らかに逮捕の必要がなかったということはできず、逮捕状の請求及びその発付は、刑訴法及び刑訴規則の定める要件を満たす適法なものであったということができる。
3 右のとおり、本件の逮捕状の請求及びその発付は、刑訴法及び刑訴規則の定める要件を満たし、適法にされたものであるから、国家賠償法一条一項の適用上これが違法であると解する余地はない。
4 そうすると、右と異なり、上告人らは被上告人に対して国家賠償法一条一項に基づき本件逮捕により被上告人が被った損害を賠償する責任を負うものとした原審の判断は、前記の各法令の解釈適用を誤ったものであり、この違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。論旨は理由があり、その余の上告理由について判断するまでもなく、原判決中上告人らの敗訴部分は破棄を免れない。そして、被上告人の本件損害賠償請求はすべて理由がないとした第一審判決は正当であるから、右部分に対する被上告人の控訴を棄却すべきである。
よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官大西勝也 裁判官根岸重治 裁判官河合伸一 裁判官福田博)
上告代理人増井和男、同鈴木健太、同河村吉晃、同山元裕史、同喜多剛久、同赤西芳文、同塚本伊平、同巖文隆、同近藤秀樹の上告理由
第一<省略>
第二 本件逮捕状発付の適法性
原判決は、被上告人に逃亡のおそれも罪証いん滅のおそれもなかったから、令状発付裁判官は明らかに逮捕の必要性がないという判断をすべきであったとしているが、本件逮捕状の発付はその要件を備えた適法なものであった。
一 刑訴法一九九条二項ただし書及び刑訴規則一四三条の三の解釈・適用の誤り
裁判官は、逮捕状の請求があった場合において、逮捕の理由があると認めるときは、「明らかに逮捕の必要がないと認めるとき」を除き、逮捕状を発付するものとされている(刑訴法一九九条二項ただし書、刑訴規則一四三条の三)。すなわち、裁判官が逮捕状の請求を却下すべき義務を負うのは明らかに逮捕の必要がないと認めるときに限られている。
刑訴法の右規定は、逮捕状の請求は、捜査の端緒の段階においてされるものであり、資料的にも種々の制約があるので、その発付は捜査に対する不当な介入とならないようにする必要があるが、同時に、司法的抑制の趣旨を全うする必要があるとして、両者の間に調和のとれた判断を要求し、したがって、裁判官が逮捕の必要があることについて合理的な疑いをいれないことまでは要求せず、必要であるらしいという程度の心証が得られればよいとする一方、その域に達しない明らかに逮捕の必要性がないと認められるときにのみ逮捕状の請求を却下すべきものとした。
しかるに、原判決は、右のような刑訴法の規定の趣旨を理解せず、被上告人には「逃亡のおそれ及び罪証湮滅の恐れがなかったものと認められる」(原判決二五丁裏四行目ないし五行目)と結論づけ、「明らかに逮捕の必要がないと認める」ことができるか否かという観点からの検討を欠いている。すなわち、原判決は、罪証いん滅のおそれに関して、単に被上告人の意思をあれこれ推認するにとどまり(原判決二五丁裏六行目ないし二六丁表五行目)、明らかにその意思が認められないか否かについては何ら検討をしていないし、被上告人の外国人登録証を廃棄するおそれについての判示(原判決二八丁裏六行目ないし九行目)や犯行の組織的背景についての判示(原判決二九丁表四行目ないし同丁裏二行目)をみても、「明らかに逮捕の必要性がないと認める」ことができるか否かという観点からの検討を欠いている。
原判決は、この点において、既に刑訴法一九九条二項ただし書及び刑訴規則一四三条の三の解釈・適用を誤っている。
二 逮捕の必要性を否定した判断の誤り
1 外国人登録法一四条違反の罪を軽微な犯罪とした誤り
原判決は、外国人登録法一四条違反の罪(以下「指紋不押なつ罪」という。)について、「実質的には違法性及び社会的非難の程度が軽微な犯罪であった」(原判決二四丁裏七行目)として、このような犯罪に対しては、「逮捕権の行使は謙抑的であることが要請される」(原判決二五丁裏一行目ないし三行目)と判示している。
しかし、指紋不押なつ罪が軽微な犯罪であるというのは、原判決の独断にすぎない。すなわち、犯罪の軽重は、何よりもまず、その法定刑に基づいて判断すべきである。指紋不押なつ罪の法定刑は、「一年以下の懲役若しくは禁錮又は二〇万円以下の罰金」(あるいは「懲役又は禁錮及び罰金」の併科・外国人登録法一八条)とされており、この点だけをみても指紋不押なつ罪は決して軽微な犯罪ではない。また、刑訴法上一定の軽微な犯罪(本件逮捕状発付当時は八〇〇〇円以下の罰金、拘留又は科料に当たる罪・平成三年法律第三一号による改正前の刑訴法一九九条一項ただし書、罰金等臨時措置法七条一項)については逮捕することができる場合が限定されているが、指紋不押なつ罪はこれに該当しないから軽微な犯罪とはいえない。仮に原判決がいうように、法定刑が「一年以下の懲役若しくは禁錮又は二〇万円以下の罰金」に該当する罪が軽微な犯罪であるとすれば、秘密漏泄罪(刑法一三四条)、公然わいせつ罪(平成三年法律第三一号による改正前の刑法一七四条)、礼拝所不敬罪(刑法一八八条)、信書隠匿罪(刑法二六三条)等がこれに該当することになるし、また、道路交通法違反の罪の大半、その他行政法規違反の多くの罪が軽微な犯罪ということとなり、これら犯罪行為については、本件のように再三にわたる被疑者の不出頭が続いたとしても、これを逮捕することはできないこととなる。このような結論は、逮捕状の発付が捜査機関の意向を尊重しつつ行われることに照らすまでもなく、明らかに失当である。
なお、原判決は、当時の指紋不押なつ罪の宣告刑がおおむね罰金一万円ないし五万円であったと指摘している(原判決二四丁裏五、六行目及び二九丁表四、五行目)が、それは、当該被告事件限りで、裁判所がその事案について具体的に判断した結果の集積にすぎない。さらに、原判決は、外国人登録法の改正等本件逮捕状発付後に生じた事情をもって、本件逮捕状発付当時における指紋不押なつ罪の違法性や社会的非難の程度が軽微であると判断しているが、そのように判断する根拠はない。
付言すると、原判決は、本件被上告人の損害を認定する過程において、指紋押なつ義務及びその違反者に対する刑罰を定めた各規定は、それを平和条約国籍離脱者等に適用する限り、憲法一三条、一四条、国際人権B規約七条、二六条に違反する状態だったのではないかとの疑いを否定できない旨判示している(原判決六二丁裏八行目ないし六三丁表一行目)。この判示が、そもそも損害額の認定といかなる関連を有するのか不明であるが、このような疑いがあったということが本件逮捕の必要性の判断に影響を及ぼしているとも考えられないではない(原判決二四丁五行目以下参照)。しかし、そもそも外国人登録法の指紋押なつ制度及びその違反者に対する制裁には十分な合理性と必要性があり、これを平和条約国籍離脱者を含む定住外国人に適用することが憲法一三条、一四条、国際人権B規約七条、二六条に違反すると解することはできない。原判決も、結論的には、右各規定が違憲又は条約違反ではないと判示している。そうすると、このような「疑い」があるというだけで、逮捕の必要性の判断が左右されるはずがない。確かに、裁判官は、逮捕状を発付する際、法令の違憲性を審査することができるとしても、当事者が合憲か違憲かについて攻撃防御を尽くしていないことや迅速性の要請などを考慮すれば、明確に法令が違憲であるという結論に達し得ない以上、当該法令が違憲であるとして逮捕の必要性を否定することはできない。
以上のとおり、原判決が指紋不押なつ罪をもって軽微な犯罪であると判示している点が本件逮捕状発付の必要性を否定する根拠の一つとなっているとすれば、原判決はその前提において誤っている。
2 逃亡のおそれ及び罪証いん滅のおそれがないとした判断の誤り
原判決は、①被上告人は、自らが捜査の対象となり、起訴されることは覚悟の上で、将来の公判手続においては指紋不押なつの事実を認め、その不当性を積極的に主張して指紋押なつ制度撤廃運動に寄与しようと考えていたこと、②被上告人は、安定した家庭生活、職業生活を送っており、一般に逃亡のおそれが肯認されるような生活状態ではなかったし、京都大学名誉教授らが被上告人に逃亡のおそれがない旨の保証書を警察へ提出し、本人が逃亡しない旨宣明していることが地元の新聞で大きく報道されたこと、③逮捕状請求時までに収集されていた関係者の供述調書等で本件指紋押なつ拒否の事実を立証するには十分であり、これらの証拠に対して、被上告人は影響を与え得る立場になかったことなどの事情を列挙して(原判決二五丁裏六行目ないし二七丁表五行目)、被上告人には逃亡のおそれも罪証いん滅のおそれも認められなかったと判示している。
しかし、原判決の右判示は経験則に反する不当なものであり、かつ、刑訴法一九九条二項ただし書及び刑訴規則一四三条の三の解釈・適用を誤ったものである。
(一) 刑訴法は、一定の軽微な犯罪について逮捕できる場合を限定しているが、このような軽微な犯罪についても、被疑者が正当な理由がないのに出頭の求めに応じない場合にはこれを逮捕することはできるとしている(刑訴法一九九条一項ただし書)。したがって、刑訴法が正当な理由のない不出頭をもって逮捕の必要性を示すものとみていることは明白である。すなわち、被疑者が正当な理由がないのに出頭の求めに応じないことは、逃亡のおそれと罪証いん滅のおそれの徴表であり、不出頭の回数が重なるにつれて、逃亡や罪証いん滅のおそれがより強く推認されることになり、逮捕の必要性も次第に大きくなっていく。本件においても、被上告人は、警察から出頭を求められた昭和六一年二月二八日、三月一七日、三一日、四月七日及び一四日又は一五日の五回にわたり、いずれも正当な理由なく出頭を拒否したから、逃亡のおそれと罪証いん滅のおそれとが強く推認される事案であった。そして、右のような規定の趣旨を尊重すれば、原判決の挙示する事情があるからといって、被上告人に刑事手続からの逃避性向が認められないとは到底いえない。したがって、本件の場合、「明らかに逮捕の必要がない」とはいえない。また、原判決がいうように「正当な理由のない不出頭をもって逃亡のおそれ及び罪証湮滅のおそれの存在を推定することができない特段の事情がある」(原判決二八丁表四行目ないし六行目)などともいえない。
(二) そもそも本件の指紋押なつ拒否は、原判決が認定するとおり、被上告人が指紋押なつ制度撤廃運動に参加して行われた犯行であって、逮捕状発付の段階ではいまだその背景事情が解明されているとはいえなかった。刑の量定にあたっては、このような背景事情の具体的な態様を解明し、同種の犯罪の発生に及ぼす影響等をも考慮する必要がある。本件の場合も、少なくとも本件逮捕状が発付された当時、その背景事情について罪証いん滅のおそれがあった(仮に事件の背景事情を解明した結果、それが刑の量定に影響を与えなかったとしても、その故をもって、本件逮捕状が発付された当時、背景事情について罪証いん滅のおそれがあったことが左右されるものではない。)。
原判決は、「指紋不押なつ罪の宣告刑は概ね罰金一万円ないし五万円であることに鑑みると、それ自体が行政犯であるため、動機、組織的背景等の情状事実が現実の指紋不押なつ罪の刑の量定に殆ど影響を及ぼしていないと推測されるし、仮に右罰金額の多寡に何らかの影響を与えているとしても、量刑にその程度の影響しか持ち得ない情状事実の解明のために被疑者の身柄を拘束することは明らかに均衡を失する」(原判決二九丁表四行目ないし一〇行目)と判示している。しかし、本件当時指紋不押なつが常に同じような背景事情によって発生していたとはいえないから、本件の場合これらの背景事情等を解明する必要性はいささかも減ずるものではなく、原判決がいうように、「本件における組織的背景事実は罪証いん滅の対象にならない」(原判決二九丁裏一行目ないし二行目)と断定することはできない。
以上のとおり、本件は、逃亡のおそれ及び罪証いん滅のおそれが認められ、逮捕の必要性が肯定されるべき事案であり、「明らかに逮捕の必要がない」事案でなかった。したがって、本件逮捕状の発付は適法であって、この点において、原判決には、刑訴法一九九条二項ただし書及び刑訴規則一四三条の三の解釈・適用を誤った違法がある。
第三 結び<省略>
上告代理人堀家嘉郎、同小林昭、同香山仙太郎、同前堀克彦、同竹村繁、同後藤廣生、同大東弘の上告理由
第一 原判決には法令(刑事訴訟法)の解釈適用を誤った違法があり、その違法は判決に影響を及ぼすことが明らかである。
一 はじめに
原判決は、要約すると、
被上告人が、昭和六〇年二月八日京都市右京区役所において外国人登録証明書の汚損による引替交付手続をするに際し、外国人登録法(以下「外登法」という。)一四条に定める指紋押なつを拒否し、よって同法一八条一項八号に該当する外登法違反の被疑事実を肯認することができるとしながら、当時から右犯罪事実につき捜査をしていた上告人京都府の警察官である京都府桂警察署(以下「桂警察署」という。)司法警察員警部井手一文(以下「井手警部」という。)が、昭和六一年四月一七日京都地方裁判所に対し右外登法違反被疑事件につき被上告人を被疑者とする逮捕状を請求したのは、被上告人には逃亡のおそれ及び罪証をいん滅するおそれがなく、明らかに逮捕の必要がないと認められるから、刑事訴訟法(以下「刑訴法」という。)一九九条二項ただし書及び刑事訴訟規則(以下「刑訴規則」という。)一四三条の三の各規定に違反しており、また同裁判所の裁判官和田真(以下「和田裁判官」という。)が同年四月一七日右逮捕状の請求に基づき被上告人に対する逮捕状を発付したのも同じ理由により違法であるから、和田裁判官が発付した逮捕状により翌一八日午前七時三三分被上告人を逮捕して桂警察署に引致し、同日午後一時四〇分被上告人を被疑者として捜査記録等とともに京都地方検察庁検察官へ送致するまでの間被上告人を逮捕抑留した(その後同庁検察官は取調べの上同日午後六時三九分被上告人を釈放した)のは違法であり、井手警部及び和田裁判官は、右逮捕の必要性がないことを知るべくしてこれを知らなかった過失により、共同して被上告人の自由を侵害しよって被上告人に対し精神上の苦痛たる損害を与えたから、井手警部がその公務員として所属する上告人京都府は和田裁判官が所属する上告人国と共同して被上告人に対し金四〇万円を賠償すべきである。
旨判示している。
しかしながら原判決が、井手警部がした前示逮捕状の請求、和田裁判官がした逮捕状の発付及び和田裁判官が発付した逮捕状による被上告人の逮捕が、すべて違法であるとするのは、原判決が刑訴法一九九条一項及び二項並びに刑訴規則一四三条の三の各規定の解釈適用を誤っているからである。
以下そのことについて詳述する。
二 原判決の問題点
原判決には、以下の問題点が存在する。
1 原判決は、以下の諸点を本件逮捕の必要性の判断の前提としている。
(一) 通常逮捕の目的は、「将来の公判のために、被疑者の出頭を確保し罪証湮滅を防止すること」(原判決二三丁裏四行目ないし同五行目)との見解に立っていること。
(二) 「被疑者を通常逮捕するためには、被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由(以下「逮捕の理由」という)とともに、被疑者が逃亡または罪証を湮滅するおそれ(以下「逮捕の必要性」という)が認められることを要するものと解せられる」(原判決二三丁裏五行目ないし同八行目)として、逮捕の必要性が積極的に認められることを逮捕の要件と解していること。
(三) 外登法一四条違反の罪(以下「指紋不押なつ罪」という。)について、地方議会等による指紋押なつ制度の廃止の決議、指紋不押なつ罪被告事件の宣告刑の実態、本件犯行後の法改正等を根拠として、「指紋不押なつ罪が実質的には違法性及び社会的非難の程度が軽微な犯罪であった」(原判決二四丁裏六行目ないし同七行目)との評価を行っていること。
2 原判決が、右(一)ないし(三)を前提として、本件逮捕の必要性がなかった理由として、以下の諸点を指摘していること。
(一) 被上告人が、自らが捜査の対象となり、起訴されることがあり得ることも覚悟の上であったし、桂署に提出した被上告人作成の陳述書に照らせば、将来の公判手続において本件指紋不押なつの事実を認めた上で指紋押なつ制度の不当性を積極的に主張し制度撤廃運動に寄与しようと考えていたこと(原判決二五丁裏六行目ないし二六丁表五行目)。
(二) 被上告人は、安定した家庭生活、職業生活を送っており、一般に逃亡のおそれが肯認されるような生活状態ではなかったし、京都大学名誉教授らが被上告人に逃亡のおそれがない旨の保証書を桂警察署に提出し、本人が逃亡しない旨言明していることが地元の新聞に大きく報道されたこと(原判決二六丁表六行目ないし同丁裏二行目)。
(三) 逮捕状請求時までに収集されていた関係者の供述調書等で本件指紋押なつ拒否の事実を立証するには十分であり、これらの証拠に対して被上告人は影響を与え得る立場になかったこと(原判決二六丁裏三行目ないし二七丁表五行目)。
3 さらに、原判決は被上告人の本件不出頭に正当な理由があったとは認められないと認定し、「任意出頭の求めに対する正当な理由のない不出頭は、一般的には刑事訴訟手続からの逃避性向を窺わせるから、これが繰り返される場合には、特段の事情のない限り、罪証湮滅のおそれないし逃亡のおそれの存在を推定してよい」(原判決二七丁裏七行目ないし同一〇行目)と判示しながら、本件については、被上告人が「将来の公判手続において、積極的に自己の言い分を主張して指紋押なつ制度の撤廃運動に寄与しようとしていた」(原判決二八丁表一行目ないし同三行目)ことを「正当な理由のない不出頭をもって逃亡のおそれ及び罪証湮滅のおそれの存在を推定することができない特段の事情」(原判決二八丁表四行目ないし同六行目)として判示し、逮捕の必要性を否定していること。
4 しかし、原判決が述べるところには、いずれも誤りがあるので、以下詳論する。
三 問題点に対する反論
1 通常逮捕の認識の誤り
前記二の1の(一)で指摘したとおり原判決は、通常逮捕の目的は将来の公判のため被疑者の出頭を確保し罪証いん滅を防止することであるとしているが、右見解は、現行刑訴法に規定されている警察の第一次捜査権を無視するものである。
すなわち、刑訴法一八九条二項は「司法警察職員は、犯罪があると思料するときは、犯人及び証拠を捜査するものとする。」と規定し、司法警察職員を第一次捜査責任を有する機関として位置づけている(青柳文雄ほか著「註釈刑事訴訟法」立花書房第二巻一九頁参照)。
しかるところ、刑訴法が規定する通常逮捕は原判決の判示する公判のためにだけ設けられたのではなく、現行刑訴法が通常逮捕に関する諸規定を「捜査」の章に置いていることからも明らかなように、通常逮捕は警察の第一次捜査権を全うする過程で認められた手続の一つでもあり、捜査の過程において逮捕の理由及び必要性があれば、警察に与えられた権限として逮捕できるのは当然である。
したがって、公訴提起前の捜査段階において収集した証拠及び把握した情報により、被疑者に逃亡のおそれ又は罪証いん滅のおそれがある場合には、警察は、当然に第一次捜査権に基づいて独自に逮捕状の請求を行うこととなるのである。
2 逮捕の必要性の判断基準についての解釈の誤り
前記二の1の(二)で指摘したとおり、原判決は逮捕状を発するには逮捕の必要性が積極的に認められることを要すると解しているが、刑訴法一九九条二項ただし書及び刑訴規則一四三条の三は、逮捕の必要性を積極的に認定することは要求しておらず、「逃亡のおそれ又は罪証隠滅のおそれがないと明らかに認められない場合」には逮捕の必要性が認められるのである。
すなわち、これらの規定により、被疑者を逮捕するためには「逮捕の理由」と「逮捕の必要性」が具備されることを要する。つまり、「逮捕の理由」については、刑訴法一九九条一項「……被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があるときは……」と、同条二項は、「……被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があると認めるときは……」と規定し、裁判官が「逮捕の理由」の存在を積極的に認定することを要求している。
しかしながら、「逮捕の必要性」についてはこれと異なり、刑訴法一九九条二項ただし書は「……明らかに逮捕の必要がないと認めるときは……」と規定し、また、刑訴規則一四三条の三も「……被疑者が逃亡する虞がなく、かつ、罪証を隠滅する虞がない等明らかに逮捕の必要がないと認めるときは……」と規定し、「逃亡のおそれ」や「罪証いん滅のおそれ」等を積極的に認定することを求めていない。
つまり、逮捕が許容されるのは、明らかに逃亡のおそれ又は罪証いん滅のおそれが認められる場合に限られるのではなく、逃亡のおそれ又は罪証いん滅のおそれがないと明らかには認められない場合には逮捕の必要性が認められるのである(最高裁事務総局刑事局編「刑事手続法規に関する通達・質疑回答集(追補Ⅱ)」五〇七頁、最高裁事務総局刑事局編「令状関係法規の解釈運用について(上)」一〇頁、平野龍一「刑事訴訟法」有斐閣九四頁、伊藤栄樹著「新版刑事訴訟法の実際問題」立花書房六四頁ないし六九頁参照)。
以上の逮捕の必要性の判断基準については、反面逮捕状請求者側が行う刑訴規則一四三条の逮捕の必要性の疎明の基準を示しているものと理解すべきである(前掲「令状関係法規の解釈運用について(上)」一三頁)ところ、原判決は明らかに右各規定の解釈を誤っており、この逮捕の必要性の判断基準の解釈の誤りが、本件につき逮捕の必要性がないとした原判決の判断に重大な影響を与えていることは明白である。
3 指紋不押なつ罪の軽重についての判断の誤り
原判決は「指紋不押なつ罪が実質的には違法性及び社会的非難の程度が軽微な犯罪であった」(原判決二四丁裏六行目ないし同七行目)と判示し、逮捕の必要性がなかったことの前提として論じているが、刑訴法が、一定の軽微な犯罪について、逮捕の制限を設けている場合(一九九条一項ただし書)にあっても、一定の場合には逮捕が認められていることからも明らかなように、そもそも事件が軽微であるから逃亡のおそれあるいは罪証いん滅のおそれがないとは、いい得ないことなのである。
この点はさておくとしても、犯罪の軽重をうんぬんする場合には、まずもって当該犯罪の法定刑の軽重によってこれを判断すべきところ、本件指紋不押なつ罪の法定刑は「一年以下の懲役若しくは禁錮又は二十万円以下の罰金」あるいは「懲役又は禁錮及び罰金」の併科(外登法一八条)とされ、決して軽微な犯罪とはいい得ないものである。また、刑訴法上逮捕し得る場合が限定されている軽微な罪としては、本件当時、八、〇〇〇円以下の罰金、拘留又は科料に当たる罪(平成三年法律第三一号による改正前の刑訴法一九九条一項ただし書、罰金等臨時措置法七条一項)が予定されていたものであって、この点からしても、本件指紋不押なつ罪が軽微な犯罪とはいえないことが明らかである。右のように法定刑が「一年以下の懲役若しくは禁錮又は二十万円以下の罰金」に該当する罪が軽微な犯罪であるとすれば、刑法の罪においても、秘密漏泄罪(一三四条)、公然猥褻罪(平成三年法律第三一号による改正前の一七四条)、礼拝所不敬罪(一八八条)、信書隠匿罪(二六三条)等が軽微な犯罪に該当し、また、道路交通法違反の罪の大半の罪、その他行政法規違反の多くの罪が軽微な犯罪ということになり、これら犯罪行為については、本件のように再三にわたる被疑者の不出頭が続いたとしても、原則として逮捕することはできないということになりかねないのである。
なお、原判決は、当時の指紋不押なつ罪の宣告刑がおおむね罰金一万円ないし五万円であったと指摘しているが、具体的な量刑については、刑事裁判の審理に当たる裁判所が、当該事案に応じて決すべき性質のものであって、逮捕状請求時において考慮すべきことではないというべきである。
しかも、前記のとおり、本件当時の刑訴法一九九条一項ただし書、罰金等臨時措置法七条一項の規定からみても、また、平成三年法律第三一号による改正後の現在においても、二万円以下の罰金、拘留又は科料に当たる罪が、右にいう軽微犯罪とされているのであって、原判決が指摘する宣告刑の実際を前提としても、本件指紋不押なつ罪は、刑訴法上逮捕を限定されている軽微犯罪に当たらないのである。
さらに、原判決は、指紋不押なつ罪の犯罪としての軽重を判断する上で、外登法の改正等、本件逮捕状請求後に生じた事情まで考慮しているが、かかる事情をもって本件逮捕状請求当時における指紋不押なつ罪の違法性や社会的非難の程度を判断すること自体、不当というべきである。
4 本件逮捕の必要性についての判断の誤り
原判決は前記二の2の(一)ないし(三)の事実を理由として被上告人に逃亡及び罪証いん滅の意思を認めることができないとしているが、右判断には次に述べる誤りがある。
(一) 原判決が認定判示している捜査経過及び捜査結果として当時存していた証拠によれば、司法警察職員巡査部長徳永強志らが本件被疑者である被上告人の出頭を求めた時点において、その求めが正当である程度には被上告人に対する前述の外登法違反事実の嫌疑が生じていたことは明らかであり、また井手警部が被上告人に対する前同被疑事件につき被上告人に対する本件逮捕状請求をした時点で、被上告人が前同被疑事実の罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由が認められる程度までの嫌疑を生じていたことはこれを否定すべくもないのである。
それ故、本件捜査を担当していた司法警察職員らは、捜査の目的を達するためには最終的に被疑者の取調べをして、犯行の原因・動機・目的・態様・背景・共犯者の有無等の事実及びこれらに密接に関連する諸般の事情について被上告人が持っている情報を得るべく努力する責務を負っていたというべきである。
そもそも、警察は前述のとおり第一次捜査機関としての責務を負っているのであり、被疑事実はもとより、量刑事情、捜査終結処分に必要な資料の収集事実の解明もまた、第一次捜査機関たる司法警察職員の権限に属し、その責務を構成しているところ、被疑者から「警察に協力する義務も出頭要求に応じる義務もない」、「事件は公判廷で明らかにする」との態度が示されたとしても、刑訴法一九八条一項が、「検察官、検察事務官又は司法警察職員は、犯罪の捜査をするについて必要があるときは、被疑者の出頭を求め、これを取り調べることができる。」と規定していることからも、警察は第一次捜査権の行使を断念すべきではなく、警察が、それらの事情の解明を行うことは、もちろん、正当である。
(二) これに加えて、本件訴訟記録にあらわれている証拠に照らして捜査の状況を考察してみると、本件においては、さらに捜査を継続することを必要とする特殊な事情として、更に以下の事実が認められる。
① まず、昭和六一年三月一五日に、被上告人の弁護人弁護士坂和優が被上告人に代わって桂警察署長あてに提出した被上告人名義の昭和六一年三月一四日付けの陳述書(甲第二号証の三)を検すると、その記載内容は本件被疑事実を自白する内容のものであるから、これを重要視すべきであることが分かるけれども、その文書は印字をもって綴られており、かつ、被上告人の氏名は記名にとどまっているのである。
それ故桂警察署の司法警察職員としては何よりも第一にこの陳述書が真に被上告人が自ら作成したものであるのか、それとも被上告人の意をうけた他人が誤りなく文案を練って作成したものか、それとも他人の考えたものが付加せられていることはないのか等を確かめる必要があったことがうかがえるのである。
何故なら、右陳述書の成立についての疑問の解明は刑訴法三二二条の法意に顧みても無視できないことであるからである。
② 次に、この陳述書には被疑事実たる指紋押なつ拒否の事実がほとんど抽象的だといえるほどにしか記載せられておらず、犯罪の動機、心情を推測することはできない。しかしながら、このことは刑訴法二四八条に定める犯罪の「情状」として重視すべきことであり、かつ、警察官が検察官に送致するについては犯罪捜査規範一九二条により情状意見を付することを義務づけられていることから、司法警察職員においても、この点について、さらに捜査を進める必要があったのである。
そればかりではなく、司法警察職員にとっては犯罪の情状としては右の事実のみでは足りず、犯罪の態様として、被上告人が指紋押なつを拒否するときのその場面の状況例えば京都市右京区役所市民課長寺岸佳一との対応の仕方や犯罪に至る背景等も明確にする必要があり、到底右陳述書を読んだだけで捜査を終結できる状況ではなかったと認められるのである。
③ 昭和六一年二月一九日付け桂警察署司法警察員警部補勝浦憲一作成の同区役所市民課長寺岸佳一の供述調書(甲第六号証)によると、被上告人が同区役所において本件指紋押なつ拒否の所為に出たときは、訴外李洋子と同人とが意思相通じて同所に同行し、各人が外国人登録証明書が水でぬれて、写真がはがれたから引き替えてもらいたい旨同じような事情を陳述していること、そして指紋押なつを拒否する理由として両名が陳述した言い分には相似たものがあることが認められるが、被上告人が陳述するところには法律的見解をも交えて相当詳しいものがあるのに比して、李洋子の言い分は単純であって被上告人の言い分から程遠いものであることが認められる。このことは李が被上告人の勧誘によって事を運んでいることを疑わしめるものであるといい得る。
また被上告人及び李洋子が水でぬれたといっていた元の外国人登録証明書を持参して提出したのかどうかは明らかにされていないし、それらの元の証明書が誰の手にあるのか、どのように処分されているかも明らかにせられていないので、右両名の陳述した事実の真相又は真偽は必ずしも明らかになっていないのである。
よって、これらの事実の疑問点又は不十分な点の事項について、さらに捜査を進めて解明する必要があったのである。
④ また昭和六〇年四月二〇日京都府太秦警察署司法巡査山口休雄作成の同警察署長あての「指紋押捺拒否者の聞込みについて」と題する報告書(甲第四号証)に添付の近畿地区外登法改正闘争委員会発行の「闘争ニュース」第一号の記載によると被上告人は本件指紋押なつ拒否の外登法違反の所為に出た昭和六〇年二月八日よりも二箇月前の昭和五九年一一月二八日ころに外登法改正闘争の一方法として在留国たる我が国の法秩序維持のための外登法の執行に対抗する意図を抱いていて、その意図を明らかにするため指紋押なつ拒否宣言を行いその意図の実現のため、被上告人らにとっての記念日である前示二月八日を選んで、李洋子を勧誘して、殊更に本件指紋押なつ拒否の同法違反の所為に及んだのではないかとの疑いを拭い去ることはできないのである。
それ故、桂警察署の司法警察職員としては、被上告人がした本件違反行為について前述の組織的背景的事実を重視し、事案の真相を明らかにし、もって、被上告人の刑事責任の軽重を判断する(刑の量定)のに役立たしめるために、さらに捜査を進める必要があったし、また前述のとおり被上告人と李洋子がそろいにそろって各人の外国人登録証明書を水にぬれて写真がはがれたといってその引替交付を申請したのは右記念日たる二月八日までに故意にそれらの外国人登録証明書を汚損して引替交付を申請して、指紋押なつ拒否の機会を造出したのではないかとの疑いもまた生じているのであって、この疑いを解明するためにさらに捜査を進める必要があったのである。
以上により、桂警察署の司法警察職員が被上告人に対し被疑者として同署への出頭を求めた昭和六一年二月二四日から、右司法警察職員が京都地方裁判所に対し被上告人に対する逮捕状を請求した同年四月一七日までの間においては、同司法警察職員が被上告人につき前述の疑問となる事実の真相を解明するために、種々の事項につき、さらに捜査を進める必要があったことはこれを否定できないのである。
詰まるところ、当時被上告人は、犯行の原因・動機・目的・背景・共犯者の有無等重要な情状については一切認めていないのであるから、これらの事実については罪証いん滅のおそれは多分にあったのであり、被上告人が正当な理由もないのに繰り返し出頭拒否するのみならず、技巧をこらして司法警察職員の追及を免れようとしていた事実はその徴表であるのである。
5 正当な理由なき不出頭の評価の誤り
(一) 本件においては捜査を進める必要があったため、桂警察署司法警察職員らは昭和六一年二月二四日から同年四月九日までの間に五回にわたって被上告人の出頭を求めたが、いずれも出頭を拒否した。被上告人のこれら出頭拒否に正当な理由がなかったことは本件証拠上明白であり、原判決もこれを正しく認定しているところである(原判決二七丁裏一行目ないし同三行目)。そして、正当な理由のない不出頭は、刑事訴訟手続からの逃避性向をうかがわせるのであるから、これが繰り返される場合には、逃亡のおそれ又は罪証いん滅のおそれの存在が推定されるのであり、本件においてもかかる推定が当然に働くということができる。
(二) 刑訴法が捜査に関する規定において「逃亡のおそれ」という場合、それは捜査機関から完全に身を隠し通すことだけではなく、刑事手続の適正な運用への正当な理由を欠く非協力的態度を示すことと解されるところ、本件において被上告人は、五回の出頭要請をことごとく拒否し、その上、出頭拒否を理由に逮捕されることを免れるため、多くの支援者の協力を得て、陳述書(甲第二号証の三)及び保証書(甲第二号証の六ないし一〇)を提出してあくまでも本件犯行についての司法警察職員の追及から身を守ろうとしたのである。
右のような事態は被上告人の刑事手続からの逃避性向を示すのみならず、被上告人がこの後の捜査の進展の中で本件事実についての犯罪の組織的背景及び共犯者の追及という状況に立ち至った時には、国外に逃避するとか又は国内において一時所在をくらますとかの所為に出でないとは限らないと推測せしめるに足る事情であると認められるのである。
また、「罪証いん滅」のおそれについては、本件において、前記4の(二)の①ないし④で明らかにしたとおり、本件逮捕状請求の時点においては、いまだ捜査が終了しておらず、更に被告人の取調べを含む捜査を継続することによって明らかにすべき数々の重要な事項、特に前述の指紋押なつ拒否宣言を掲げた闘争ニュース第一号によれば犯罪の動機が被上告人が意図する指紋押なつ廃止の政治的、社会的運動に出でたものであるというが、その場合においても、被上告人が李洋子と相伴って本件犯行に及んだ背景、殊に組織的共謀関係並びに被上告人及び李洋子の所持する各外国人登録証明書が汚損するに至った原因及び事情、その汚損した右証明書はその引替交付の手続の間に又はその後にどのように処分されたか等の事実を明らかにしなければならないなどの諸事項、すなわち被上告人の犯罪の動機についても、その態様についても、これを重く評価すべきか否か等の公訴提起の要否又は刑の量定にかかわる数多くの捜査事項が残されていたのである。
そしてこのことは、多くの有識者や法律家などの支援を受けていた当の被上告人が十分に認識していたと認められるのであって、それ故被上告人は前述の捜査の不足の部分、換言すれば捜査の不十分な事項につき司法警察職員から追及されることを回避することを思い立ち、出頭を拒否したときでも逮捕を免れるためにはいかにすべきかについて、支援団体の幹部、知り合いの有識者及び弁護士の助言又は助力を得て、逮捕を免れるための工夫をしているのであって、このことは原判決が挙示している被上告人の陳述書(甲第二号証の三)、飯沼二郎ほか四名の保証書(甲第二号証の六、七、九及び一〇)、通知書(甲第二号証の一)及び上申書(甲第一号証)その他の書証たるべきものの写しの存在によってこれを認めることができる。
このような事態は、前述の捜査の不十分事項についての証拠の暴露を防止せんとするものであり、被上告人と事件の関係者との間又は事件の関係者らの間で、本件被疑事実に関する前述の背景事実を明らかにするに必要な証拠となる物的又は言葉上の資料を消滅させる所為に出でるおそれがあることを推測させるに足る事情であると認められるのである。
つまり、原判決は飯沼二郎ほか四名の保証書の存在によって被上告人の逃亡のおそれを否定しているが、これらの保証人と被上告人との関係は、単に「知人」ということしか分らず、同人が被上告人に対しどの程度の影響力をもっているのかは分っておらず、特に被上告人の本件被疑事実たる犯罪の動機、目的と前述の組織的社会的背景との関係についてどの程度のことを知っていて、今後の捜査の進行状況に照らして被上告人の行動をどの程度抑制できるかについては少しも分らないのである。
したがって、保証人らの保証があるということによって、被上告人が逃亡するおそれがないとは認めがたいのである。
(三) さらに、原判決は収集済みの証拠によって被疑事実の立証は十分であり罪証いん滅の余地はないといい切っているが、前述のとおり本件にはいまだ解明されていない重要な事項があり、罪証いん滅の余地は十分残されていたのである。
(四) 以上諸事情にかんがみても、本件において、桂警察署司法警察職員が五回にわたって被上告人の出頭を求めたにもかかわらず、被上告人が正当な理由なく出頭拒否を繰り返していた事実は、被上告人が逃亡し又は罪証をいん滅するおそれを高度のがい然性をもって推認させるに十分なものであったということができる。
(五) 特段の事情の解釈の誤り
ところが原判決は、「将来の公判手続において、積極的に自己の言い分を主張して指紋押なつ制度の撤廃運動に寄与しようとしていたのであるから、刑事訴訟手続からの逃避性向を窺うことはできず……」(原判決二八丁表一行目ないし同四行目)として、本件は、「正当な理由のない不出頭をもって逃亡のおそれ及び罪証湮滅のおそれの存在を推定することができない特段の事情がある」(原判決二八丁表四行目ないし同六行目)場合であるというのである。
しかしながら、それは被上告人が当時右のような主張をしていたというだけのことであって、現実には正当な理由のない不出頭を繰り返していたのであるから、到底、原判決が摘示するような事情が「特段の事情」と解することはできないのであり、この点について、原判決は明らかに経験則に違背するものである。
また仮に「将来の公判手続において、積極的に自己の言い分を主張する」とのことが真実であったとしても、公判に至る以前の捜査段階における逃亡のおそれ又は罪証いん滅のおそれが否定されるものではなく、また、捜査段階における逃亡、罪証いん滅がなされた結果、起訴に足るだけの証拠が収集されなければ、「将来の公判手続」などあり得ないことになるのであるから、右主張だけをもって刑訴法一九九条二項ただし書にいう「明らかに逮捕の必要がないと認めるとき」に当たるとは解することはできず、刑訴法一九九条二項の解釈を誤った原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違背が存するといわざるを得ない。
6 なお、原判決は、「被疑者の取り調べをしなくても検察庁が起訴することがありうることは公知の事実である」としているが、我々にとっては、検察官が被疑者の取調べをしないで、その者を起訴することが公知の事実であるとは認めがたいのである。
仮にそのようなことがあるとすれば、それは、刑訴法及び犯罪捜査規範によって捜査した事件については、その送致を義務づけられている司法警察職員が、被疑者死亡の場合を除き、必ず捜査事件につき被疑者の取調べをして、その取調べの結果である供述調書が存在するときに検察官が取調べ又は供述調書の作成を省略する場合のほかには考えられないことである。
被上告人についての本件被疑事実の捜査着手後、世上の話題となったものとして、病気療養中の国会議員について、検察官が同人の自白供述書を徴したのみで、直接同人に対面して被疑者としての取調べをしないで略式命令請求手続によって公訴を提起したことが報道せられた事実があるが、これは極めて特異な事例であって、このような事例によって、検察官が被疑者の取調べをしないで公訴を提起することが公知の事実であるとは認めることはできない。
また、原判決は、「なお、被控訴人京都府は、検察庁は被疑者の取調べをしない限り公訴提起はしない方針であるから、正当な理由のない不出頭を続ける被疑者を逮捕しなければ、任意呼出しに応じた被疑者だけが刑事訴追を受けるという不均衡な結果を招く旨主張するが、被疑者の取調べをしなくとも検察庁が起訴することがありうることは公知の事実である上、被控訴人京都府の右主張は、刑事訴訟法一九八条が定めた、逮捕、勾留されていない被疑者の検察官、検察事務官、司法警察員からの出頭要求を拒みうる権利をないがしろにするものであり、到底左袒できない。」(原判決二八丁表九行目ないし同丁裏五行目)と判断するが、この判示は明らかに誤っている。
上告人が第一審において主張(平成三年八月一二日付け被告京都府第四回準備書面一〇丁裏一四行目ないし一一丁表七行目)したのは、正当な理由がなく不出頭を続ける被疑者に逃亡のおそれ又は罪証いん滅のおそれが認められた場合、すなわち逮捕の必要性があることを前提として、なお逮捕しないと不均等な結果を招く旨主張したものである。
四 小結
以下のとおり、原判決には、刑訴法一九九条一項及び二項並びに刑訴規則一四三条の三の解釈適用を誤った違法があり、これが判決に影響を及ぼしていることは明らかであるから、原判決は破棄されなければならない。
第二、第三、第四<省略>